下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

という本をしばらく前に読んだ。


内田樹の本は
いつもエキサイティングで
新しい視座を与えてくれる。


とはいってもしばらく前に読んだので
あまり内容を覚えていない。
でも二つ、明確に覚えている。
なぜ勉強をしなければいけないのか?
ということと、
リスクヘッジとリスクテイク、
自己決定・自己責任論についてだ。
ぼくも実際そうだったけど
中学校やらのとき
なぜこんなことをしなきゃいけないのか、
と思ったものだ。


今振り返っても三角関数なんて
人生において役立ったことなんて一度もない。
サインやらコサインやら、
そういうの不必要じゃないか、と
たぶんほとんどの人がそういうこと思ったことがあると思う。


内田樹いわく、
「なぜ必要か今現在測定できないもの」
のみが学び、勉強の対象になるそうだ。
世界には膨大な知識のストックがある。
その中のどれが自分の人生にとって
必要か、なんてことは、
たとえば中学生程度の知識・価値観で
測定できるはずがない。


学びとは本質的に
「そのものの価値を測定できないものを
習得すること、価値は習得した後にわかる
(だって知らないから、学ぶわけだしね)」
だという意見。


確かに三角関数なんて使う場面は、
26歳になった今でもまったくない。
でも、じゃあ今の自分の価値観を
あるいは人生を形作ったものを
あらかじめ選別して有効に学ぶことが
できたのかというと
それは不可能で、
今この歳になってみて、ああ、あれが
今自分の血肉になっているな、とわかる。


だから、「なんで勉強しなきゃいけないの?」
という問いは学びのプロセスから
外れたところからしかたち現れない。
じゃあそれはいったいどんなプロセスから
つまり、なんで子どもたちはそんな問いをたてるのか、、、
それは、本を読んでみてのお楽しみ。
まぁ賛否両論あるでしょう。


もうひとつ、この本で
目から鱗だったのは
リスクヘッジとリスクテイク、
自己決定・自己責任論についてだ。


なんだか、
世の中、自分で決める、ってことにあまりにも
価値を置きすぎじゃないか?
というのが内田樹の意見。


今はリスク社会だという。
普通にいままで生活していた人が
突然次の日には路上生活者に
なってしまう、そんな社会になっている。


そんな中で、
何もかも自分で決めて、
それで路上生活にいたるなら
それは本望だっていう意見が
なんかかっこよくなってないか、
そういう主張が流行歌やらなんやら
やたらかまびすしくないか。


それがいいか悪いかの判断はおいておいて、
でもその姿勢・意見に客観的になる必要がある。
なぜならそれはリスクテイクの姿勢だから。
そして、さらに問題なのは
リスクヘッジの術があまりにも軽視
あるいは共有されなさ過ぎている。


リスク社会において
リスクをヘッジする術はいったい何なのか。


内田樹が例にあげているのは
世襲議員のこと。
彼らが、全部自己決定して
今の地位にきたわけではないだろう、
両親・親族が人生の岐路において
大なり小なり影響を与え
それをある程度間に受けて
それで社会の上流という地位を得たはずだ。


それが結果的にリスクヘッジの術となっていた。
さらにポイントなのは
高学歴・高収入の層にそういった傾向が
顕著だということ。


リスクヘッジの術は社会の上流で
連綿と受け継がれている。


一方で社会の下流
自己決定・自己責任至上論に流されている。
だから格差、
富めるものはより富み、
貧すものはより貧す、
という構造がより固定化されていく。


うぅむ、
確かにそんな気がする、
と札幌からの帰りの飛行機の中で
妙に納得しました。


尻切れトンボですが、以上。
ここまで読んでくれたかた、
どうもありがとう。
まぁ最初のさわりだけでもありがたいけども。


また、内田樹を紹介してくれた
某店某スタッフ、どうもありがとう。
人生にまたひとつ彩が加わった気分です。