先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

を読んでみた。
といっても一週間くらい前のことで、
そのときにレビューしようと思ったのだけど
書いているうちにわけが分からなくなってきて、心が折れた。
そういう本でした。


ただ、同じ内田樹の「私家版ユダヤ論」を今日一応読了して
それがこれに輪をかけてちんぷんかんぷんだったので
「仕方ない、こっちをリトライ!」そんな感じです。


でいま思うとこれは「すべて師足らざるは無し」
ということを言いたかったのかしらと思うわけです。
「すべて師足らざるは無し」というのはまぁそのまんま、
あらゆることから学びの機会というのは得られますよ、
みたいな意味なはずですね(これはちなみに松下幸之助の「若さに贈る」という本に出てきます)。


で、ここで注意したいのは、「得られる」という言葉です。
これは学びの機会が常に提供されているというよりは、
生徒側の学ぼうという姿勢によって学びが起動するということを意味しています。
(少なくとも「先生はえらい」の文脈に沿って言えばそう捉えられます)。
だから、「先生は偉い」と思うことが、学びを正常化しうるひとつの解決法である、と書いてある。


まあ、そんな感じの本でした。


。。。すいませんウソです。
この本で面白かったのは、そういう話じゃなくて
コミュニケーションの本質(コミュニケーションは誤解を前提に構造化されてるそうです)とか、
交換の起源(沈黙交易というらしいです)とかそういうところで、
それが上の「すべて師足らざるは無し」というところにうねうねと繋がっていったんだけどなぁ。。。


ふぅむ。わからん。


。。。言い訳するわけではないのだけれど、
わかったつもりになってしまうことが一番怖いそうで。
つまり分かったと思うと、その問題に関しては
今後考える機会がなくなってしまう、すると自分の思考の幅が
その問題に関してはそれ以上伸びなくなってしまうらしいのね。
だから、わからんものはわからんままに、要検討課題として脳味噌のデスクトップに
アイコンとして並べておく、これが肝要だそうな。


そういうわけで今回はこんなところでご勘弁を。
また理解の紐が解けたら続きを書きたいと思います。